いつかきっとがもう間近

ありのままの生活と夢の中

穏やかに健やかに

喧嘩したい、不機嫌になりたい、怒りたいとは思わない。毎日、笑って過ごしたい。穏やかに健やかに、素直に生きることを楽しみたい。

それがこのざまだ。きっと、穏やかに健やかに過ごすためには、教養がいるのだろう。幼い頃の慈しまれた記憶、守られた記憶、受け止められた記憶が、教養となって情緒が高級に育つのではなかろうか。

だが、過去と他者に情緒の責任をおしつけても、気分が晴れないし、しっくりこない。

さて、どうしたものか。

最近、母の言動に悩むことが多くなった。物忘れすると、○○が持って帰った、と母はよく口にする。私は忘れ物をみつけ出しては、○○さんに謝らないとね、と冗談を言った。今までもそんなことは何度もあった。

それが、昨日は、○○さんが私になった。私は耳を疑った。悔しさや情けなさよりも、怒りがこみ上げた。

「ボケが始まったのね」と、確実に母の耳に届くように大きな声ではっきりと意地悪く言った。きっと、母は傷ついたに違いない。だが、私の気持ちはおさまらない。おさまらないが、おさめるしかない。

こんな時、高級な情緒の人は涼しそうに微笑みを浮かべ、「わたしではありませんよ、でもこまりましたね」と自分を守りながらも、母を気遣うのだろうか。それとも、「わたしが持って帰ったのかもしれませんね、探してみましょう」と、肯定してから話題を変えるのだろうか。

今度同じ場面になれば、想像上の高級な情緒の人になりきって、「私じゃないよ、困ったね」と言ってみようか。言えるかな。

 

 

カマキリ

カマキリを漢字で書くのは難しい。「蟷螂」と書くと知ったときは、草抜きを命じられることもなくなっていたから、当然カマキリを目にすることもなかった。だからカマキリのイメージは、子ども頃から変わらずに、とても悪い。

「倉庫を開けた途端、カマキリの子どもが群れになって外に出てきたの、まるで蜘蛛の子を散らすように」という誰かの話に怖気立ち、慄いたせいかも知れない。

彼岸に墓参りに行った。その墓所は市が運営しており、広大な自然の中にありながらも手入れが行き届いていて、春になれば美しい桜並木が現れる。しかし広いが故に、水場が遠い。それで家から、ポリタンクに大量の水を汲んでいくことになる。

車から降ろしたポリタンクを両手でさげて、すこし歩いてはしゃがみこみ、すこし歩いてはしゃがみこむ。それを何度も繰り返して、やっとのことで墓まで運んだ。

まずは御影石に張り付いた落ち葉や砂埃を穂先がほぼ摩耗して板となった箒で清掃した。そして誰か生けてくれた枯れ花は処分して、花筒を丁寧に洗い、買ってきた紫と黄色、白の菊の花を挿した。書けば数行のことだが、気分的には重労働だ。

最期に、墓まわりに水を撒いて、数珠を取り出し、線香を立てて、手を合せた。

灯篭のテッペンに置いたポリタンクの蓋に目をやると、細いカマキリが1匹、とまっていた。

この広大な自然の中、たまたま置いた灯篭の上の蓋に、カマキリがいたのだ。しかも子どもだ。

輪廻転生は信じてはいないが、ふと、父が来たのかという思いが頭をよぎった。あれほど毛嫌いしていたカマキリなのに愛おしい気持ちになり、慌ててカメラの中に時間を留めた。

 

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