いつかきっとがもう間近

ありのままの生活と夢の中

穏やかに健やかに

喧嘩したい、不機嫌になりたい、怒りたいとは思わない。毎日、笑って過ごしたい。穏やかに健やかに、素直に生きることを楽しみたい。

それがこのざまだ。きっと、穏やかに健やかに過ごすためには、教養がいるのだろう。幼い頃の慈しまれた記憶、守られた記憶、受け止められた記憶が、教養となって情緒が高級に育つのではなかろうか。

だが、過去と他者に情緒の責任をおしつけても、気分が晴れないし、しっくりこない。

さて、どうしたものか。

最近、母の言動に悩むことが多くなった。物忘れすると、○○が持って帰った、と母はよく口にする。私は忘れ物をみつけ出しては、○○さんに謝らないとね、と冗談を言った。今までもそんなことは何度もあった。

それが、昨日は、○○さんが私になった。私は耳を疑った。悔しさや情けなさよりも、怒りがこみ上げた。

「ボケが始まったのね」と、確実に母の耳に届くように大きな声ではっきりと意地悪く言った。きっと、母は傷ついたに違いない。だが、私の気持ちはおさまらない。おさまらないが、おさめるしかない。

こんな時、高級な情緒の人は涼しそうに微笑みを浮かべ、「わたしではありませんよ、でもこまりましたね」と自分を守りながらも、母を気遣うのだろうか。それとも、「わたしが持って帰ったのかもしれませんね、探してみましょう」と、肯定してから話題を変えるのだろうか。

今度同じ場面になれば、想像上の高級な情緒の人になりきって、「私じゃないよ、困ったね」と言ってみようか。言えるかな。

 

 

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