いつかきっとがもう間近

現のこと、夢のこと、

タイムリーなお題が見つかったので。昨夜、一気読みした本、最新版。

お題「一気読みした本」

本を買う気もないのに、本屋でうろうろしていたら

新聞広告で見た『君の膵臓をたべたい』があった。

ツレが「あ、これ、読んでみたかったんだ」と言ったので

「ああ、それ、広告でみて私も読んでもいいかなって思ってたから」と買った。

 

一人称、「僕」の主観から成り立つストーリーで

本好きで他人と自分に溝を作っている「僕」が、

1年未満で膵臓の病気で死ぬ秘密をもった「彼女」と知り合って

他人とのつながりを心地よいものだと認めていく青春物語。

 

昔、プリニエの『醜女の日記』を読んだ。

これも一人称、「私」の主観から成り立つストーリーで、私の好きな本だ。

一人称の小説を読むと、必ず思う。

騙されるな、これは僕や私の主観に過ぎない、

きっと顛末は第三者的に逆転されるぞ、と思いながら読んでいた。

 

やっぱりね、のストーリーだったけど、スラスラ一気読みできる

引っ掛かりのないきれいな文章だった。

少し年代的に気に障る面倒くさい言葉も羅列してあったが

一人称だけで、物語を作るのは大変な力量だと思う。

 

「彼女の親友、恭子」の性格がわかりにくかったが、

それはきっと、一人称的にわかりにくい性格の人がいるって実体験で知っているので

「僕」にとってもそうだったんだろうな、と想像した。

 

この『君の膵臓をたべたい』というタイトルが人目をひいて

猟奇的なストーリーかと思わせるが

沸点の低い恋愛小説だった。

血圧が低すぎる私にとっては、このくらいがちょうどいい。

 

 

 

タイトルは先に書く? 後に書く?

いつも思う、タイトルって先頭にあるけど

まずタイトルが浮かぶことは、私の場合、ありえない。

けれど、この「タイトルは先に書く? 後に書く?」のタイトルは

先に書いた。何故なら、それについて書こうと思ったから。

 

要するに、こういうことなんだ。

書きたい何かを決めて書いているわけではなく、

書いているうちに、整理アンド淘汰されてタイトルになっている書き方を

いつもしているということ。

 

先にタイトルを決めて書いてみると、焦点がずれないし、

ずれていないから読みやすい文章になると思う。

そしてタイトルを意識するので、

同じワードをなんども羅列しやすく、結果的に検索に引っかかりやすい。

ブログが読まれやすくなる、ということか。

 

けれど、どちらかというとタイトルを後に書くほうが

気軽に書ける。むしろ、タイトルがなくてもいいくらいだ。

それではブログの形にならないから、

渋々タイトルを後からつける。

「ってか、お前さぁ、そんなら、家で日記でもつけてろよ」と

ツッコミをいれてくれる誰かを幻想しながら。

 

お墓まいり

今週のお題ゴールデンウィーク2017」

大きなお休みになると、その中のどこかでお墓まいりをする。

信心深いわけではもちろんなく、

ただただお墓がはるかに遠いところにあるせいだ。

 

お墓まいりをするときは、

念珠と新聞紙、花きりばさみと軍手と草刈鎌を持っていき

途中で、菊の仏花を4束、買う。

 

「来ました!!」と軽く挨拶して

えっちらおっちら、カビやらコケやら草やらを掃除して

「ま、これくらいで、いいかしら」と納得顔で花をいけ

「火事になったらいけないから」と2本を折った線香に火を点け

「また来ますね」と軽く目を瞑って終わる墓まいり。

 

帰り道は、ぐちぐちで、

「あんなとこに、入りたくないわ」

「あの場所に私を入れないでね」

と、夫に懇願するのは毎度のこと。

 

「死んだら、もうわからないからいいじゃないか」

と、夫はそう言うのだが、、わかってないなぁ。

死んだら、もうわからないのだから、そんなとこに入れなくてもいいじゃない?

 

 

 

いつも夢を見ていた

人ごみの中、見つけた

目と目が合った

確かに認めた

何気なく近づき合い

小さく驚き

自然に並んだ

 

また夢をみた

夢の中は居心地がよく

とても幸せだった

また会いましょう

 

使わなくなった一眼レフのアナログカメラ

お題「カメラ」

昔の話、ニコンの一眼レフを買った。

広角レンズと望遠レンズも買った。

三脚も買った。

 

それらを持って、一人、四国へ旅をした。

足摺岬で停まって、海を撮った。

 

途中まで電車に乗り、

宿毛あたりでバスに乗った。

急カーブの細い山道を

遠心力で崖に引っ張られるのを計算しているかのような

ハンドルさばきで、運転手は正確な時間に足摺岬まで運んでくれた。

 

なんども海に投げ飛ばされたような感覚のまま、

降り立った土地は、南国だった。

あのとき、一人で四国に行かなければ、何かが変わっていただろうか。

 

そのカメラは今も家にある。

使わなくなったわけは、デジタルカメラの手軽さに負けたのではなく、

思い出に封印したかったせいかもしれない。

 

 

夢か現か幻か

昨夜のこと、夜半過ぎにようやく仕事にメドがつき、

寝たほうがいいなと、意識して横になり目を閉じた。

すると、両耳の鼓膜を魔物がじかに触っているような絶対的で高圧的な雑音が

私を奈落の底に引きずり下ろした。

目は開けているのに、現実ではないとわかる光景が私の脳を圧倒した。

やけに明るく鮮やかな光景なのに、恐怖でしかなかった。

ここに来てはいけないのに、帰らないといけないのに、と必死に起き上がろうと抵抗して声を出していた。そして目が覚め、怖くて深夜番組をしているテレビをつけた。

 

そしてまた、すぐに奈落の底に侵入し、また

やけに明るく鮮やかな光景の中に閉じ込められ、必死に抵抗した。

何故、目を開けているのだろう、目を閉じていたはずなのに、目は開いている.

いやだ、いやだ、怖いよ、と明るすぎる世界の中で叫んでいた。

そして目が覚め、もうあとは眠れない。

 

脳が疲れていたのかな、寝るのが怖くて仕方ない。

 

 

 

 

種をまこう、苗を育てよう

お題「今日の出来事」

そろそろ出来損ないのチューリップの花も終わりに近づいてきた。

そこで、チューリップを球根から引き抜いて、種から双葉に成長したヒマワリ苗を植えた。

 

種をまかなきゃ、芽はでない。

この当然の話は、使い古された訓示の一つだ。

私はせっせと種を蒔く。蒔いて、蒔いて、蒔いて、蒔いて。

これは自己暗示のひとつでもある。

 

種をまきさえすれば、芽はでるのだ。

そのかわり、時間はかかる。

手もかかるし、お金もかかる。

けれども、そこに芽が出さえすれば、感情がかかわる。

 

うれしい、きれい、うつくしい、

かなしい、ぶさいく、きたない、

すき、きらい、ふつう、

感情がかかわると、優劣をつけたくなる。

 

すぐれている、ひょうじゅん、おとっている、

いい、わるい、きょうみがない、

すごい、ひどい、とんでもない、

優劣をつけると、振り出しに戻る。

 

種をまこう。

今年もちゃんと忘れずに。

生きている証のルーティン。