読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いつかきっとがもう間近

現のこと、夢のこと、

今は違うけど。

  お題「好きな作家」

中学生の頃、太宰治に憧れた。多くの人が太宰治に憧れるのだね。

その頃出ていた文庫本は、もちろん全て読んだ。理解できていると思って読んでいた。

でも実は、憂鬱そうに頬杖をついた太宰治の写真画の横に書かれていた「玉川上水で心中」という文字を読んで、未知への憧れに火がついただけかもしれない。そして、退廃的な生活に身を落としていった作家に対して、作家とはかくありなん! と作家の理想像として太宰治を据えてしまったのが、私の失敗だったのかもしれない 。                                  

広告を非表示にする

面白い本は笑わない。

結局、昨日はJUNKUDOには行けなかった。暇なときは暇だけど、用事ができると、その用事が派生して、いきなり多忙になったりする。

まぁ、それもよい。

読みたい本がある時は、幸せだ。時間を惜しんで、後一ページだけ読んでから本を閉じようと思いつつ、また一ページそしてまた一ページと結局、時間を忘れて読み耽る。そして、あと僅かしかページ数がなくなってきたら、終わらないでくれ、まとまらないでくれと願いつつ、読み進める。そして、読み切ると、あきらめ悪くまだ何かが書いてあるかも知れないと、あとがきのページの後ろまで、活字がどこかにこぼれていないか、見逃さないように慎重に見回すのだ。

頼む、もう少し、このまま活字に溺れさせておくれと願うのだ。けれど、物語は終わるのだ。終わらない物語はない。いつかは終わる。

そんな読書体験をたくさんした。たくさん、いい思いをした。たくさん、たくさん、読んで読んで読んだ。これは、人生経験に匹敵すると思うのだ。匹敵してほしいと思うのだ。

さて、何を読もうか。
面白い本は余韻が底をつかない。面白い本は最後に笑わない。(と断定しては受け入れられないか)「面白い本は最後に笑わないものが多い」だ。

復活の兆し、活字中毒

最近の話、文字を読んでいない。半年前までは活字中毒のように、貪るほど四六時中、しおりを挟んだ文庫本が食卓の隅に何冊も重ねてあったのに。

生活パターンが変わってきたのかもしれない。ちょっとしたことで、何十年も培ってきた習慣が突風がサーッとひと吹きしたかのように、跡形もなくなくなってしまったようだ。けれど、ようやく穏やかなそよ風が吹いてきたのかもしれない。

だんだん、やはり文字が恋しくなってきた。何か読みたい、何か物語に浸りたい、何か漁りたい、この欲望は爪のようなものだ。爪が伸びてきた。切りたい。切りたい。爪切りがない。では、噛むかという低レベルな欲望と同じだ。

文字は私にとって、その程度のもの。もっと高尚なレベルまで、高められればよかったのだが、文字を読み解く媒体が私の脳なので、いつまでたっても爪程度。それでも、爪は伸びるのだ。何を読もう。どこで探そう。夕方、時間があれば、JUNKUDOにでも出かけてみようか。

句読点考

毎晩、夫と横並びして夕食を食べる。

 明日は何食べる?

まだ、食べ終わっていないのに、話題は明日の食べ物にはしる。

何十年も料理に不平不満を口にしたことのない夫は

なんでもいいよ、と答えていたが最近、中食の惣菜を食べ飽きたせいか

 魚の煮付けがいい、という。

 何の魚?

 メバルかハゲ、

 カレイやサバは?

 カレイはあまり好きじゃない、サバなら、やっぱり肉料理がいい、

 

最近、わかったことがある。

いつも私は、問いかける。

いつも夫は、読点のまま、余韻を残しながら話を締め切らない。

だから、今日まで続いてきたんだね。

そして、明日も続いていくんだね。

 

 

広告を非表示にする

桜は見ていた

桜が咲いてきた。

今日のぽかぽか天気で、ツボミは色付き膨らんだ。

川土手の1本桜は今年もなお、切り倒されずに咲いている。

桜よ、桜

よければ願いを聞いてくれ。

私の願いは欲深い。

桜よ、桜

春の嵐は間近に来ている。

散り散り別れるその前に、

遠き彼の人に伝えておくれ。

今年も桜は咲いていたと。

 

広告を非表示にする

行き帰り、生き返り、生き還り

帰るところ、行くところ、どちらもあるのは幸せなことだ。

ゆったりのんびり楽しく過ごせた。でもいつまでもこうしているわけにはいかない。

歳月は皮肉屋だ。「ゆっくりしなさい、楽しみなさい、そんなひと時もたくさんないのだから」などと思わせておいて、いきなりドカンと歳月の重みをつきつけてくるのだ。

「なぜ今までこんなに時間を無駄にしたのか。今までいくらでも時間はあっただろうに」と切り捨てられるのだ。

「お前は馬鹿なのだから、人の3倍は勉強し、働き、気を引締めなさい」と本当のことをいってほしいのに、皆、優しい。

「できなくていいよ、それが普通だよ。そんな努力しなくていいんだよ、時の運に任せておけばなんとかしてくれるよ。たとえ努力しても時の運に見放されれば、水の泡と化すだけだからね」

これも一理あるだろうが、でもこれでは生きている価値はどこにも見いだせない。何のために生きて、何をしようとした人か、何を思って何を残した人か、なにも何一つない。

だから、時間を無意味に使いたくはない。たとえ全ての人に馬鹿にされようとも、自分の時間を意識して使っていたい。それがたとえピアノの下のホコリ取りであろうと。

3月31日、サヨナラの日

3月31日が今年も来てしまいましたね。今日で、退任ですか。退職ですか。

これまでの長きに渡るお勤め、ご苦労様でした、お疲れ様でした。

定年退職をされて、「さあ、明日から第2の人生を楽しんでください」なんて言われても、今まで働いたことしかない人にとって、何をどう楽しめばよいのか悩みますよね。

もう、お払い箱なのか、もう必要がない人間なのか、家族の荷物になるのではないかとか、心配ですよね。

寂しそうに見えないだろうか、悔しそうに見えないだろうか、退職して清々したという雰囲気が出せているだろうかと、気になりますよね。

 

でも、大丈夫です。昨日から今日、今日から明日も繋がっています。

第2の人生という「人生ゲーム」の振り出しに戻る的な考えはやめて、じっくりと堂々と自分の人生の続きを歩いていってくださいね。

サヨナラはそこにいた自分にするものではなく、そこの場所にサヨナラするだけです。

虹色の明日になりますように。さらなる飛躍がありますように。