いつかきっとがもう間近

ありのままの生活と夢の中

心の葛藤:シンドイ状態への引き金

春の一日



シンドイという言葉が、一般的に通じるかどうか、自信がないので調べてみた。はじめ関西の方言だったそうだが、今では全国的に使われているそうだ。

 

最近、シンドイなと思う時が増えた。瞬間の時ではなく、時間帯が増えたのだ。胸の奥がズシンと重くなって、息苦しい。そのあと、過去にあった心に負荷がかかる経験を一つ二つと思い出し、体中が闇の中に放り込まれた感覚に陥るのだ。

 

幼稚園児のころ、「しにたい」の言葉を白い小さな紙にたくさん書いていたことを思い出す。ある時、それを母に見られたくないという感情が働いて、道具箱に詰めて棚に隠した。なぜ書いたのか、なぜ隠したのか、考えたこともなかったが、死はいつも、心のありかの逃げ道に利用していたように思う。

 

人の習性は何歳になっても、変わらないのか。すぐには消化できない物事をその場で考える暇がなかった。考えることを後回しにしてきた。それが今は時間だけはたっぷりあるから、思い出すのか。

 

なぜ死にたいのか、なぜ嘘をつくのか、なぜ隠すのか。今では死にたくないし、嘘もつかないし、隠しもしない。幼い自分が消化しきれなかった現実を幼いなりに頑張って、処理した結果が死への願望、嘘、隠匿だったのか。

 

今のシンドイ状態への引き金は、パソコンを初期化したことにある。くだらない話だ。たかが、夫が私のアカウントになりすまして盗み見をしていたところで、私には実質上、痛くも痒くもないはずだ。疑っているだけで、実際に盗み見していたのかも定かではない。夫に問いただしもしなかった。

 

だが、知らないうちにアカウントが夫のメアドに割り当てられていただけで、不信感を抱くには十分なのだ。私はパソコンを初期化して、アカウントを変更した。その変更がスムーズにいけばいいのに、いまだに難航している。それが直接の原因なのか。

絵手紙の魅力と収納の工夫

隣人に誘われて入った絵手紙教室、初めは人見知り気味の性格が災いして、話す人も少なく、気が重かった。わずか月1の教室なのに、理由を探して欠席しようかと何度考えたことか……。だが、いまでは、我が物顔で公民館まつりの絵手紙の展示を手伝い、描いた絵手紙を誕生日ハガキとして送ったりして楽しんでいる。

 

年賀状や誕生日を絵手紙でやり取りしているうちに、それを納めていた空き箱の蓋が閉まらなくなった。絵手紙の紙質は、墨や顔料が染み込むためかどうかは知らないけれど、官製はがきよりもかなり分厚い。とにかく、嵩張るのだ。そこで、どうするべきかと考えた。

 

はじめは、100均の『はがきフォルダー』。いかにも安物だが、本をめくるように1枚1枚見れるのがいい。だが、収納枚数が少なすぎるので、すぐにいっぱいになってしまった。100均のをまた買おうかなと思っていたところ、絵手紙に誘ってくれた隣人が、プレゼントしてくれた。それが、ナカバヤシのはがきバインダー。

 

これの良い点は、カチッとしているところ。本棚にもスマートに立てかけられるし、見栄えがいい。おまけに、4枚のはがきが一面に収まるので、見開きだと壮観だ。そのうえ、これが一番大事なところだが、替紙を買い足せば、増やせるのだ。

 

色鮮やかな絵手紙を1冊にまとめると、小さな美術展のよう……。上手い下手は二の次で、絵手紙を描いた瞬間のあたたかな気持ちを凝縮して届けてくれる。きっと、これからもずっと。

 

 

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